鯨と人を編む:現代美術家・是恒さくらの光と影、そして真実
広島県呉市の海辺で育った一人の少女が、後に世界の美術界で「鯨」というテーマを掲げ、静かな革命を起こしている。その名は是恒さくら。1986年生まれの現代美術家は、捕鯨の歴史、漁村の民俗、そして現代の海洋環境問題を、刺繍やテキスタイル、インスタレーションという多彩な手法で紡ぎ出す。
彼女の作品は、単なるアートではない。それは、人間と海の哺乳類が何世紀にもわたって築いてきた、複雑で時に残酷な関係性を解きほぐす試みだ。2025年、国際芸術祭「あいち2025」で発表した大型インスタレーション「After Efflorescence: Awakening the Whale Beneath Us」は、観客に深い衝撃を与えた。渥美半島と知多半島の古代から近代にわたる鯨利用の痕跡と、現代の海岸に打ち上げられる鯨たちの姿が、一つの空間に重ね合わされていた。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 本名 | 是恒 さくら (Sakura Koretsune) |
| 生年 | 1986年 |
| 出身地 | 広島県呉市 |
| 学歴 | アラスカ大学フェアバンクス校(BFA絵画)、東北芸術工科大学大学院(修士・地域デザイン) |
| 主な経歴 | 東北大学東北アジア研究センター研究員(2018-2021)、文化庁新進芸術家海外研修制度(2022、ノルウェー・オスロ大学) |
| 代表作 | 「After Efflorescence: Awakening the Whale Beneath Us」(あいち2025)、「Whales of Power」プロジェクト |
| 受賞・ノミネート | TERRADA ART AWARD 2025 ファイナリスト |
| 主な媒体 | 刺繍、テキスタイル、立体インスタレーション、リトルプレス『ありふれたくじら』 |
アラスカから東北へ:是恒さくらのルーツと学び
是恒さくらのキャリアは、決して順風満帆なものではなかった。彼女はまず、海を渡りアラスカ大学フェアバンクス校で絵画を学んだ。極寒の地で出会ったのは、先住民の文化と、彼らが鯨と共に生きる姿だった。
「アラスカで、鯨は単なる資源ではなく、共同体の精神的な支柱だと知りました」と彼女は語る。この経験が、後の創作の根幹を形作る。帰国後、東北芸術工科大学大学院で地域デザインを専攻。修士号を取得した彼女は、東北大学東北アジア研究センターで研究員として3年間を過ごす。この時期、彼女は東北の漁村をくまなく歩き、古老たちから捕鯨の記憶を聞き取った。
「Whales of Power」:ノルウェーで生まれた新たな視点
2022年、是恒さくらは文化庁の「新進芸術家海外研修制度」に選ばれ、ノルウェーのオスロ大学に渡る。ここで彼女は「Whales of Power」プロジェクトを立ち上げた。このプロジェクトは、ノルウェーと日本の捕鯨文化を比較し、鯨が政治、経済、そしてナショナリズムの象徴としてどのように利用されてきたかを可視化する試みだ。
彼女はオスロの国立図書館で19世紀の捕鯨船の航海日誌を調べ、日本の古い漁村で聞いた話と重ね合わせた。その結果生まれたのが、刺繍で描かれた鯨の骨格図と、捕鯨船の航路を記した地図のコラージュ作品群だ。これらの作品は、2024年に東京で開催された個展で初公開され、大きな反響を呼んだ。
リトルプレス『ありふれたくじら』の世界
是恒さくらの活動で特筆すべきは、リトルプレス(小冊子)『ありふれたくじら』シリーズの刊行だ。これは、彼女がフィールドワークで集めたエッセイ、詩、そして刺繍の図案をまとめたもの。捕鯨の歴史だけでなく、鯨にまつわる民話や、現代の海岸に漂着する鯨の話まで、多様な視点が詰まっている。
「美術館に来られない人にも、鯨と人の関係を届けたい」という彼女の思いから、このプレスは無料で配布されることも多い。その素朴な手触りと、深い内容が、アート関係者だけでなく、漁業関係者や環境活動家の間でも話題を呼んでいる。
あいち2025:渥美半島と知多半島の記憶
2025年に開催された国際芸術祭「あいち2025」は、是恒さくらにとって最大の転機となった。彼女は、愛知県の渥美半島と知多半島を舞台に、大型インスタレーション「After Efflorescence: Awakening the Whale Beneath Us」を発表した。
この作品の核心は、地元の漁師たちとの対話から生まれた。彼らは、かつてこの地域で盛んだった小型捕鯨の記憶を語り、同時に、近年海岸に打ち上げられる鯨の死体に頭を悩ませていた。是恒は、これらの声を拾い上げ、巨大な布に刺繍で描いた。会場には、実際に使われていた漁具や、鯨の骨のレプリカが配置され、観客はまるで海底に沈んだ記憶の中を歩くような体験をした。
この作品は、単なる環境問題の告発ではない。是恒は、捕鯨の歴史を「悪」と断じるのではなく、人間の営みとしての複雑さを描き出す。彼女の刺繍は、時に美しく、時に痛々しい。鯨の血が染み込んだ海の色が、糸で丁寧に再現されている。
TERRADA ART AWARD 2025:評価される「現在と過去の対話」
2025年、是恒さくらはTERRADA ART AWARDのファイナリストに選ばれた。この賞は、日本の現代美術を牽引する若手作家を発掘するもので、彼女の選出は、アート界が「鯨」というテーマを真剣に受け止め始めた証と言える。
審査員は、彼女の作品について「現在と過去の対話を、極めて繊細かつ力強い方法で実現している」と評した。特に評価されたのは、フィールドワークに基づく徹底したリサーチと、それを刺繍という伝統的な技法で表現する手法の斬新さだ。
是恒自身は、この受賞についてこう語る。「私は、鯨を『かわいい』とか『神聖』とか、一方的なレッテルで語りたくない。人間が鯨をどう利用し、どう畏れ、どう殺してきたのか。そのすべてを、作品に込めたい」。この姿勢が、多くの共感を呼んでいる。
「鯨を解き、鯨を編む」:新たなプロジェクト
現在、是恒さくらは「鯨を解き、鯨を編む」と題した新プロジェクトに取り組んでいる。これは、鯨の骨格標本を3Dスキャンし、そのデータを基に巨大な編み物作品を制作する試みだ。彼女は、鯨の解剖学を学びながら、その構造を糸で再現する。
「骨は、鯨の生きた証です。それを編むことで、死と生の境界を表現したい」と彼女は言う。このプロジェクトは、2026年に東北地方の美術館で発表される予定だ。
是恒さくらが問いかけるもの:海の文化の再解釈
是恒さくらの作品は、私たちに一つの問いを投げかける。鯨とは、一体何なのか。食料か、神話の象徴か、それとも環境破壊の犠牲者か。彼女は、そのどれでもあり、どれでもないと答える。
彼女の刺繍の一針一針には、漁師の汗、研究者の情熱、そして鯨の命が織り込まれている。それは、単なるアート作品を超えて、海の文化を再解釈するための、静かで力強いマニフェストだ。
広島の海辺で育った少女は、今や世界の海を渡り、鯨と人の物語を紡ぎ続けている。その物語は、まだ終わらない。彼女の手元には、次なるプロジェクトのための、無数の糸と布が待っている。
是恒さくらの作品が示す未来
是恒さくらの活動は、現代美術の枠を超えて、環境学、民俗学、そして地域振興にまで影響を与えている。彼女のリトルプレスは、学校の教材として採用されるケースも出てきた。また、漁業協同組合から講演を依頼されることも増えている。
「アートは、難しい問題を考えるきっかけを与えることができる」と彼女は信じている。鯨を巡る議論は、しばしば感情的になりがちだ。しかし、是恒の作品は、その感情を一度脇に置き、歴史と事実に基づいて考えることを促す。
彼女の今後の活動は、日本のみならず、国際的な海洋政策や文化政策にも影響を与える可能性を秘めている。鯨という、大きくて静かなテーマを通じて、是恒さくらは、人間の在り方そのものを問い直しているのだ。
Frequently Asked Questions
Q: 是恒さくらはどのような技法を使っていますか?
A: 主に刺繍やテキスタイルを用いた立体作品、インスタレーションを制作しています。また、リトルプレス(小冊子)の制作も行い、エッセイや詩も発表しています。
Q: 彼女の作品で最も有名なものは何ですか?
A: 2025年に国際芸術祭「あいち2025」で発表した「After Efflorescence: Awakening the Whale Beneath Us」が代表作です。渥美半島と知多半島の鯨の歴史をテーマにした大型インスタレーションです。
Q: 是恒さくらはなぜ鯨をテーマにしているのですか?
A: 広島県呉市の海辺で育った経験と、アラスカ大学で学んだ先住民の鯨文化に強く影響を受けました。鯨と人間の複雑な関係性を、歴史的・文化的な視点から探求しています。
Q: 彼女の作品はどこで見られますか?
A: 個展や国際芸術祭で発表されることが多いです。また、リトルプレス『ありふれたくじら』は一部の書店や美術館で入手可能です。最新情報は公式サイトやSNSで発信されています。